黒歴史日記。

なで肩です。

国語って必要?について

国語、数学、理科、社会、英語

泣く子も黙る5教科先輩である。

 

この中で「これ勉強してなんになんの?」の槍玉によく上がるのが国語先輩だ。

事実、数年前には文部科学省から全国の国立大学に向けて人文科学系の学部の改組や廃止を求める通知が出され、ニュースを賑わせていた。

 

「このときの◯◯の心情について述べよ。」

いや!そんなん作者しかわからんわ!よく聞く国語先輩への文句だ。確かにその通りだ。正解は作者しかわからないし、そこに書いてある解答例がそれと一致してるかなんてわからない。

 

しかし!だがしかし!!

現実世界において、この人はなんでこんなことを、言ってるんだろう?この人はなんで笑っているんだろう?なんで怒っているんだろう?などなど感情の意味について考えることはとても重要ではないだろうか!!!

 

もっと言えば、自分はなんでこれを面白い、楽しいと思うんだろう?なんでこれに惹かれるんだろう?と考えることはとても大事なことではなかろうか。もし、それが少しでもわかったら自然と自分の好きなものを引き寄せることができるようになるじゃないか!

 

女の子の「考えとくね。」友達の「行けたらいくわ。」「またいつかな。」彼女の「なんでもいいよ。」

これらを人の気持ちなんてわからないから…と相手の発した言葉の意味を考えるのを放棄し、言葉そのままの意味に捉えてしまったら大変じゃないか!

(これらは極端な例だが…)

 

「行間を読む。」という言葉もあるが、相手の表情や言葉の間、与えられた会話文の中で相手の気持ちを考えて、アクションを起こす。というスキルは生きていく上で必須であり、「◯◯の心情を述べよ。」的な問題はその訓練にはなるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

今の時代、言うまでもないテクノロジーの時代だ。

カニックやエンジニアなど「技術」を造る側の人間はとても重宝される。

 

様々な社会問題の解決に対して、「技術」は必要不可欠だ。

 

国語では「技術」や「テクノロジー」を学ぶことはできない。じゃあ国語はいらない?

 

もし、国民全員が「技術」を造るのに必要な実学的な数学や理科ばっかりを勉強して、実際にみんなが「技術」を造れるようになれば、国の生産性は飛躍的に上がるだろう。

 

ただ、それはもはや人間の世界なのだろうか。

全員が全員で「技術」を造り続ける…まるで工場の機械の一部のように人間が働く。人間の道具化のようなことが当たり前になる世界になりはしないか。

 

「技術」は数学や理科で学べる。

じゃあ国語は?国語ではなにが学べる?

僕は「技術」を造る意味、「理念」が学べるのでは。と思う。

 

「技術」が完成する前提には「理念」が絶対あると思う。

 

「離れていても、あの人の声が聞きたい!」という

「理念」から電話が生まれたんじゃないのか。

「あの人の楽しんでる笑顔が見たい!」からゲームが作られたんじゃないのか。

「あの人に早く逢いたい。」から、車やらなんやらが生まれたんじゃないのか。

「困っている人を助けたい!」から技術が進歩するんじゃないのか……

 

「理念」だけでは何も生まれないのはわかってる。自分が、びっくりするくらいの綺麗事を言っているのもわかる。「技術」を造れる人のすごさ、大切さ、そのおかげで自分がこうして生きていられるのも重々わかっている。

 

でも、「理念」があるから、僕たちは人間でいられるんじゃないのか?「理念」があるから、「技術」に感動できるんじゃないのか?「理念」があるからまた新しい「技術」を作ろうと、人間は頑張れるんじゃないのか?

 

人間が人間であるために。正しい「理念」を貫くために。そのために、これまで遠い遠い過去から積み重ねられた学問が、国語なのではないのか?

 

回り道もいっぱいするし、正解もわかんないし、とにかくめんどくさいけど、僕たちにとって国語は生きていくのに必要のない教科なんかじゃないだろう。

 

 

 

昼間、ある大人の話を聞いて、面倒くさい性格の

僕はそう思いました。