黒歴史日記。

なで肩です。

「見られる。」

元々、自意識が大きすぎるせいか、僕は他者から「見られる。」状況下におかれると、頭が真っ白になって何もできなくなってしまう。

 

 

テストを受けていて、担任の先生が見回りに自分のところに近づいてくる。ついには僕の横にきて先生は僕の解答用紙を見る。僕は先生から「見られる」のが途端に怖くなってしまい、解答を消してしまったり、考えているふりをして鉛筆を止めたりしてしまう。

 

恐ろしいことに、これは小学生の頃から大学生の今まで続いてしまっている。

 

 

教習所に行けば教官から「見られている。」と感じてしまい、体は固まって頭は真っ白になってしまう。

 

バイトでレジを打っていても、お客さんから「見られている。」と感じた瞬間、自分でも訳がわからないほどテンパってしまって信じられないミスをする。

 

ファミレスのセルフ式のスープ。

なんか縦に長くて大きいお鍋みたいやつから、「これは…元々は他にも具材がいらっしゃったのでしょうか?それとも、うちはこの薄っすい玉ねぎのみでやらせてもろてます!的なスタンスなのでしょうか…」みたいなスープをお椀に注ぐ。なんかちょっと先っちょ尖ったオタマみたいなので注ぐ。

後ろに人が来る。なんとなく、後ろから視線を感じる気がする。スープを注ぐ僕を「見ている。」

その瞬間、僕は小パニックになってしまう。

 

オタマの先からスープはこぼれるし、下手したら最後にオタマを鍋のふちにかけるのをミスって、オタマをスープにIN☆!させてしまう。

 

 

 

 

 

僕は元々、「誰からも嫌われたくない。」という思いが強すぎるので、特段、人の目線を気にしてしまう。

 

そのせいで、僕は早口で、大袈裟で、わざとらしい喋り方でしか人と話せなくなってしまった。

 

その方がみんなが僕をわかりやすく受け入れてくれるからだ。

 

 

 

そんな僕が1番大変なのがカラオケである。

 

自分がまあまあの声量で歌っているところを人様に見られるなど、羞恥プレイにも程があるのだ。

いや、まじで。

 

よっぽど仲の良い友達となら話は別だが、悲しいかな。大学生という生き物は異常にカラオケへのハードルが低い。

 

平気でこのアブノーマル羞恥プレイに誘ってくる輩が多すぎるのだ。

 

コロナ前は、まだそこそこの仲の人達とも1プレイ交えなければならないという状況も多かった。

 

 

そんなときはどうしても、「この歌を歌ったらこう思われるだろうか。」「ここで音を外してしまったらカッコ悪いだろうな。」などと思ってしまう。

 

自分の好きな曲より聞かれても変じゃない曲を入れたり、人様に聞かれる用に声を変えたりして、なんとかその場を凌いでいるが、やはりきついものはきついのだ。

 

 

だから、僕はカラオケオールをしていて、オールも終盤、お酒も切れて、みんながカラオケに飽きて、半分寝ているあの時間。何の曲を、どんな風に歌っても、誰も聞いてないから安心して好きなように歌える、あの瞬間が好きだったりする。

 

僕はあの時間こそが、本当の「フリータイム」だと思っている。

 

なにはともあれ、カラオケは「見られる。」ことが極度に苦手な僕にとっては、滝行並みの精神修行なのである。

 

 

 

しかし、自分でもよくわからないのが、例えばプレゼンや面接、お遊戯会の出し物などハナッから

「見られる。」ことがわかっていて、「見られる。」ことが目的のものは、そこまで苦手意識なく切り抜けられたりもする。

 

ハナッから「見られる。」ものに関しては、

直前までど緊張→本番が始まってしまえば大丈夫!

 

普段やっていることや、何気ない仕草を「見られる。」ものに関しては、

直前までは何事もなく大丈夫!→急に見られてアワアワ…のど緊張

 

と、まったく逆の構図になるのだ。

 

 

自分なりにこの原因を考えた結果、1番は「緊張」しても許されるか、許せなれないか。だと思う。

 

テストや教習やレジ打ち、スープ注ぎやカラオケは「緊張」が許されない。

 

テストで緊張して頭も解答も真っ白です!なんて許されないし、緊張しているからといって危険運転やレジの作業ミスをして良いわけがない。緊張しているからといって、オタマをスープにドボンさせてしまったらさすがにオタマも怒るだろう。カラオケだって、緊張して声が震えてるやつの歌を聞かされるのは誰だって小っ恥ずかしくて嫌だ。

 

 

一方で面接やプレゼン、お遊戯会などは「緊張」がわずかではあるが有利に働くことがある。

緊張している人の言葉は、自然と応援したくなるし、少なくとも悪いやつでは無さそうだな。とは思ってもらえる。

 

 

「緊張」を言い訳にできる環境か、そうじゃないか。が「見られても大丈夫!」か「見られたらやばい!」の違いなのだろう。

 

 

 

そんな僕なので、今から自分の子供が産まれるのが怖い。

 

子供は常に親を見ている。何をするにも親がまずは子供の手本となる。

 

パパになった僕は「パパならできるよね!」の目線で愛しの我が子から「見られる」生活を送るのだ。

 

 

 

そんな地獄のプレッシャーに耐えながら、僕は掃除の仕方を教えたり、さかあがりをやってみせたり、夏祭りの射的で景品を取ってやったり、勉強を教えてやったり、スープを注いでやったり…が果たしてできるのだろうか。

 

 

まずは、ファミレスのスープバーを臆せず使えるようになろう。

 

 

セルフ式のソフトクリーム作るやつは、諦めよう。