黒歴史日記。

なで肩です。

卒業

今日、自動車学校を卒業した。

 

僕が自転車学校に通い始めたのは、去年の春頃だった。

 

大学の3年生にもなると周りのほとんどの人が免許を持っており、「なんで取らないの?え、いつ取るの?」と言われ続け、満を持しての入校であった。

 

入校にあたってはもちろん、AT限定を選択させていただいた。

 

これまでの経験で、自分がメンタル面においても技術面においても運転が得意なわけがないことはわかっていたので、しっかり身分をわきまえた選択を取らせていただいたのだ。

 

入校し、1時間だけマリオカートみたいな機械をガシャガシャやったら次の時間からはもう実車に乗っての教習だった。

 

めっちゃびっくりした。

「え!?もう!?もう乗るの!?まだ何もわからないのに!?」

 

つべこべ言いながらも運転席に座らされ、エンジンをかけるように言われた。

 

びっくりするくらい怖かった。

なんせ、琴奨菊10人分くらいの重さがある鉄の固まりを自分が操作するのだ。

 

そのとき自分で運転した「時速15km」はもう信じられないくらい速かった。いや、速いなんてもんじゃない。

もはや「光」とか「音」とかそのレベルの速度だった。

 

あの日、僕は「光」になったのだった。

 

 

「光」になった僕は、それから運転するのが怖くて仕方なくなり、教習所にはなかなか足を運ばずにいた。

 

それでも教官の方がとにかく皆さん優しかったのと、「まぁ、最悪事故っても俺と教官が死ぬだけか!」とポジティブなのか、ネガティブなのかわからない、教官の優しさをありったけの仇で返すような決意を固めたのとで、なんとかかんとか第一段階を突破した。

 

修了検定を合格すると、遂に道路に出ての教習が始まった。

 

まじめちゃくちゃ怖かった。

万が一、路上で事故を起こしてしまうと僕と教官の命だけでは済まされない。

 

「おいおいこれは本当に人が死ぬど……。」

縁もゆかりもない岡山の方言が思わず飛び出すくらいには恐怖だった。

 

第二段階が始まってからは、さらに僕の足は遠のいた。

 

これまでは「教習に行った帰りには美味しいものを食べて帰っても良い。」という母が予防接種に僕を連れて行くために発動していた必殺タクティクスをそのまま採用して使っていたのだが、それも途中から限界がきていた。

 

 

1週間起きに行こう。いや、2週間起き、いやいや3週間起き…

 

そうこうしてるうちに教習所から

「ねー、早く来てよー。期限やばいよー?」とメールが来た。

これをしばらくスルーしてると「ねー。まだ来ないのー?」と手紙が来た。これも鮮やかにスルーを決め込ませていただいた。

「いや、はよ来いし!!!」と電話が来たところでようやく僕は教習所に再び通い出した。

 

 

僕の不安とは裏腹に教習はポンポンと進んでいき、あっという間に卒業検定直前の教習までいった。

 

ちなみに教習がポンポン進んだのは僕の技術力云々ではもちろんなく、教習所の方々の必死のサポートがあったからだ。本当に感謝してもしきれない。

 

卒業検定前の最後の教習、教官は40代くらいの優しいおじさん「マツオ」さんだった。

 

優しいマツオさんは教習の終盤、卒業検定に何か不安なことはありますか?と声をかけてくれた。

 

不安しかなかった僕は

「不安で、不安でたまらないの。だから、お願い。もう少し、そばにいて?」

要約するとこのようなことを言った。

 

 

優しいマツオさんは僕のラブコールを受けて、明らかに動揺していた。

 

これはマツオさんが童貞だから動揺したわけではもちろんない。

 

教習をサボりにサボって期限ギリギリになって、焦って駆け込んできたジャリボーイが、この期に及んで教習を延ばして欲しい。とほざき出したからだ。

 

優しいマツオさんは

「いやいや、君は運転慎重だし大丈夫だよ。とりあえず検定受けてみなよ。」と決して僕の運転が上手いとは言わずに温かく返してくれた。

 

「そんな…、もし私が検定受かったら…、私たち…2度と会えなくなるんだよ?そんなの……、私やだよ!」

僕は要約するとこのような言葉を返した。

 

マツオさんは

「いやいや大丈夫ですって!いいから受けてくださいって!」

 

と今度はヤッたら「はい、終わり。」の軽くて冷たい男のような返事だった。

 

もちろん実際のマツオさんはそんな人ではない。

 

散々教習をサボって「カニってもう少しまずければ人類に今ほど食われてなくて幸せな人生…カニ生?歩んでたのになー。」とわけのわからないことを考えていたのにも関わらず、この期に及んで卒業したくないとかなんとかゴネ出した丸顔の男が全て悪いのだ。

 

 

そんなこんなでマツオさんとの濃密な時間を過ごした僕は遂に今日、卒業検定を受けた。

 

雪が降ったり、救急車とパトカーがわんさかきたり、ラジバンダリ、色々あったが無事に検定は合格し、晴れて卒業が決まった。

 

なんとか教習期限内にこのじゃがいもを教習所から追い出せた…。ということで教習所の方々も一緒になって僕の合格を喜んでくれた。

(いや、ほんとにご迷惑をおかけいたしました。ありがとうございました。)

 

卒業検定が終わって、なんか卒業式?みたいなのが行われた。

 

名前を呼ばれたら教室の前に出てきて、各自卒業証明書を受け取る。

 

1番最初に名前を呼ばれたのは僕だった。

 

思ったより座っていた椅子の足が粘着質で、椅子を引くのに若干苦労しながらも前に出てきて、卒業証明書を受け取る。

 

「え、拍手とかもらうもんなんかな…。え、なんか思い出とか、一言話した方が良いのかな?」

 

と一瞬その場で固まってしまったが、

「あ、もういいですよ。席に戻ってください。」と言われ、言われた通り席に着いた。

 

「なにか」を待っていた欲しがりさんみたいに思われてたらどうしよう……。とドキドキしていたら卒業式?は終わった。

 

 

あとは学科の試験を受けて、合格したら晴れて免許交付だ。

 

学科の試験を受けられる期限は1年。

 

 

 

 

 

この長い長い下り坂を君を自転車の後ろに乗せて下ったり、打ち上げ花火が空に消えていったり、妖精たちが刺激してきたりする季節までには、なんとか試験を受けようと思っている。

「見られる。」

元々、自意識が大きすぎるせいか、僕は他者から「見られる。」状況下におかれると、頭が真っ白になって何もできなくなってしまう。

 

 

テストを受けていて、担任の先生が見回りに自分のところに近づいてくる。ついには僕の横にきて先生は僕の解答用紙を見る。僕は先生から「見られる」のが途端に怖くなってしまい、解答を消してしまったり、考えているふりをして鉛筆を止めたりしてしまう。

 

恐ろしいことに、これは小学生の頃から大学生の今まで続いてしまっている。

 

 

教習所に行けば教官から「見られている。」と感じてしまい、体は固まって頭は真っ白になってしまう。

 

バイトでレジを打っていても、お客さんから「見られている。」と感じた瞬間、自分でも訳がわからないほどテンパってしまって信じられないミスをする。

 

ファミレスのセルフ式のスープ。

なんか縦に長くて大きいお鍋みたいやつから、「これは…元々は他にも具材がいらっしゃったのでしょうか?それとも、うちはこの薄っすい玉ねぎのみでやらせてもろてます!的なスタンスなのでしょうか…」みたいなスープをお椀に注ぐ。なんかちょっと先っちょ尖ったオタマみたいなので注ぐ。

後ろに人が来る。なんとなく、後ろから視線を感じる気がする。スープを注ぐ僕を「見ている。」

その瞬間、僕は小パニックになってしまう。

 

オタマの先からスープはこぼれるし、下手したら最後にオタマを鍋のふちにかけるのをミスって、オタマをスープにIN☆!させてしまう。

 

 

 

 

 

僕は元々、「誰からも嫌われたくない。」という思いが強すぎるので、特段、人の目線を気にしてしまう。

 

そのせいで、僕は早口で、大袈裟で、わざとらしい喋り方でしか人と話せなくなってしまった。

 

その方がみんなが僕をわかりやすく受け入れてくれるからだ。

 

 

 

そんな僕が1番大変なのがカラオケである。

 

自分がまあまあの声量で歌っているところを人様に見られるなど、羞恥プレイにも程があるのだ。

いや、まじで。

 

よっぽど仲の良い友達となら話は別だが、悲しいかな。大学生という生き物は異常にカラオケへのハードルが低い。

 

平気でこのアブノーマル羞恥プレイに誘ってくる輩が多すぎるのだ。

 

コロナ前は、まだそこそこの仲の人達とも1プレイ交えなければならないという状況も多かった。

 

 

そんなときはどうしても、「この歌を歌ったらこう思われるだろうか。」「ここで音を外してしまったらカッコ悪いだろうな。」などと思ってしまう。

 

自分の好きな曲より聞かれても変じゃない曲を入れたり、人様に聞かれる用に声を変えたりして、なんとかその場を凌いでいるが、やはりきついものはきついのだ。

 

 

だから、僕はカラオケオールをしていて、オールも終盤、お酒も切れて、みんながカラオケに飽きて、半分寝ているあの時間。何の曲を、どんな風に歌っても、誰も聞いてないから安心して好きなように歌える、あの瞬間が好きだったりする。

 

僕はあの時間こそが、本当の「フリータイム」だと思っている。

 

なにはともあれ、カラオケは「見られる。」ことが極度に苦手な僕にとっては、滝行並みの精神修行なのである。

 

 

 

しかし、自分でもよくわからないのが、例えばプレゼンや面接、お遊戯会の出し物などハナッから

「見られる。」ことがわかっていて、「見られる。」ことが目的のものは、そこまで苦手意識なく切り抜けられたりもする。

 

ハナッから「見られる。」ものに関しては、

直前までど緊張→本番が始まってしまえば大丈夫!

 

普段やっていることや、何気ない仕草を「見られる。」ものに関しては、

直前までは何事もなく大丈夫!→急に見られてアワアワ…のど緊張

 

と、まったく逆の構図になるのだ。

 

 

自分なりにこの原因を考えた結果、1番は「緊張」しても許されるか、許せなれないか。だと思う。

 

テストや教習やレジ打ち、スープ注ぎやカラオケは「緊張」が許されない。

 

テストで緊張して頭も解答も真っ白です!なんて許されないし、緊張しているからといって危険運転やレジの作業ミスをして良いわけがない。緊張しているからといって、オタマをスープにドボンさせてしまったらさすがにオタマも怒るだろう。カラオケだって、緊張して声が震えてるやつの歌を聞かされるのは誰だって小っ恥ずかしくて嫌だ。

 

 

一方で面接やプレゼン、お遊戯会などは「緊張」がわずかではあるが有利に働くことがある。

緊張している人の言葉は、自然と応援したくなるし、少なくとも悪いやつでは無さそうだな。とは思ってもらえる。

 

 

「緊張」を言い訳にできる環境か、そうじゃないか。が「見られても大丈夫!」か「見られたらやばい!」の違いなのだろう。

 

 

 

そんな僕なので、今から自分の子供が産まれるのが怖い。

 

子供は常に親を見ている。何をするにも親がまずは子供の手本となる。

 

パパになった僕は「パパならできるよね!」の目線で愛しの我が子から「見られる」生活を送るのだ。

 

 

 

そんな地獄のプレッシャーに耐えながら、僕は掃除の仕方を教えたり、さかあがりをやってみせたり、夏祭りの射的で景品を取ってやったり、勉強を教えてやったり、スープを注いでやったり…が果たしてできるのだろうか。

 

 

まずは、ファミレスのスープバーを臆せず使えるようになろう。

 

 

セルフ式のソフトクリーム作るやつは、諦めよう。

🦀

やらなければいけないことがたくさんある。

えらいもんで、やらなければいけないことがあまりにも多いと、何から手をつけていいかわからず、なおさらやる気がなくなる。

 

そうなるとえらいもんで、とにかくこの現実から逃げ出したくなる。

 

するとえらいもんで、僕は自分が1番現実逃避ができる「文章を書く。」という行為に走る。

 

文章を書いている間は、書くことに全集中できるため、他のことを考えなくて済むのだ。

 

ということで、オチもなく、何のメッセージ性もない文章を、ただただ自分が現実逃避をしたいがために書こうと思う。

 

 

 

 

 

 

すっかりえらくなった僕は「カニ」について考えた。

 

 

ここから先の話は完全なる僕の持論なので、「カニ」の古参ファンや「カニガチ恋勢の方々は、どうか子供の戯言だと思って全力でスルーして欲しい。スルーどころか、今すぐこのブログを閉じて、LINEを起動させて、親御さんになかなか言えない日頃の感謝を伝えるなどして欲しい。

 

 

 

 

 

 

それでは僕の「カニ」に対する率直な思いを述べようと思う。

 

それは、「あともうちょっと、まずければなぁ……。」である。

これは僕なりに「カニ」のことを最大限に思っての意見だ。

 

 

正直に言おう。僕は「カニ」が高くて、なかなか食べれなくて、それでいてちょっと美味しいから好きだ。

 

僕は未だにマックでチキンクリスプを2つとサービスの水だけ頼むくらいのお子ちゃまなので、どれだけ高級なものでも珍味のような、味の癖が強すぎる食べ物が苦手だ。

 

その点、「カニ」は良いラインを攻めてくる。

 

なんとなく高級!という雰囲気もあって、そこそこ美味しい。

 

この、「そこそこ美味しい」がポイントなのだ。 

 

カニ」はもちろん美味しいが、「美味し過ぎて毎日でも食べたい!!!」かと言われたら決してそうではない。

 

カニ」は高級なもので、「たまに食べられる美味しいもの」だからこそ価値がある。万が一、タラバガニ1杯100円です!と言われても、「え!じゃあ毎日食べます!!」と手放しには言えない。

 

毎日食べるなら全然お肉が食べたいのである。

カニ」より毎日食べたいほど美味しいものは他にいくらでもあるのだ。

 

僕は「カニ」は高級なもので、そこそこ美味しいから貴重な物だ!と思って重宝している。

 

ということは、もし「カニ」がここまで美味しくなければ、僕は特に重宝しないのではないか。むしろ今の美味しい!のレベルがギリラインなのではないか。あともう少しでも「カニ」が美味しくなければ、わざわざ僕は「カニ」なんて食べないのではないか。

 

 

そもそも、「カニ」を本当に美味しくて、毎日食べたい!という人が多いなら、もっと日頃からスーパーにたくさん「カニ」が並んでいるのではないか。

 

いや、よくよく考えたら「カニ」の見た目、怖過ぎないか。見た目ほぼほぼクリーチャーじゃないか。冷静に見たら、見た目めっちゃ怖くないか。

恐らく「カニ」側もまさか自分たちが食われるとは思ってなかったのではないか。

 

「え、俺わりとエグい見た目してますけど、食うんすか?え、俺一応ハサミとかあるんすけど?え、別におかまいなしって感じすか?」とカニ側も思ってるんじゃないか。

 

そもそも「カニ」って食物として、特段栄養素が高い!とかではないのではないか。

 

「高級だし、普段食べない味だし、そこそこ美味しいから!」という理由で人類から搾取されているのではないか……。

 

これが僕の「カニ」に対する率直な思いである。

 

カニ」があと少しでも今より美味しくなかったら、人類から「珍しいだけの、見た目気持ち悪い美味しくない生き物」とみなされ、今ほど人類に獲られることもなく、平和に暮らせるのでないか……。

 

カニ」はハサミを大きくして強くするより、中身を不味くして人類から獲られない進化を遂げた方が、よっぽど種の存続に役立つのではないか……。

 

 

カニ」って食べるのめんどくさいし、まずければ人類みんながどスルー決め込むのではないか。

 

 

カニ」側もわりと良いバランスで「味」を調整してきたと思う。牛肉のような、わかりやすい美味しい!味には仕上げてこなかった。しかし、もう少し、もう少し、わかりやすく変な味になっていれば、今ほど「カニ」は人類から食べられてなかったのではないか。

 

 

変に「美味しい」の部分を「カニ」が残してしまったばっかりに、このような現状になってしまっているのではないか。

 

あと少しでも美味しくなければ、「カニ」は平和に暮らせたのではないか……。

 

あと、「横にしか動けない。」って制限、めっちゃ面白いけど、生きる上で絶対邪魔じゃないのか……。

 

 

 

 

以上が僕の率直な「カニ」に対する思いなのだが、「蟹の念仏」として、聞き流してくれたら幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

素敵な定食屋について

僕の住んでいる寮の近くに定食屋がある。

 

店内は15席ほどしかない小さなお店で、ご夫婦お2人でお店を切り盛りされている。

お店中が温かい雰囲気にたくさん溢れている素敵なお店だ。

 

アットホームな雰囲気のお店だが、意外にもお店の旦那さんも奥さんも、お客さんにやたら話しかけたりはしない。(もちろん、お忙しくてそんな暇がないというのもある。)

 

 

僕も何回も通っているが、お2人との会話は注文とお会計の確認、それと帰り際に言われる

「いつもありがとうね。」

だけだ。

 

それでもお2人がとても温かい人で、お客さんのことをよく考えてくれていることはすごく伝わってくる。

 

料理がどれも優しい味で、とても美味しいのはもちろんなのだが、お2人はお客さんによって出すお茶碗の種類を変えているのだ。

 

同じ定食を頼んでも、僕と、40代くらいの紳士的な方、定食と一緒に昼間からホッピーをたしなんでいるおじいちゃんとでは、出されるお茶碗の色や材質が違う。

 

40代くらいの紳士的な方には、白地に青の線がいくつか入った、どこかスタイリッシュなお茶碗。ホッピーのおかわりを頼んだこのおじいちゃんは深い緑でギザギザの線が入った落ち着きのあるお茶碗。

 

何回か通ううちに、僕には真っ白で少し大きめなお茶碗が出されるようになった。

 

なにを頼んでもご飯が盛られるのは、この真っ白なお茶碗。

 

といっても僕はお金がないので、頼むのはほとんど一番安い「しょうが焼き定食」か「からあげ定食」だ。(どちらも650円で、びっくりするくらいボリュームがあって、これまたびっくりするくらいに美味しい。)

 

お2人に真っ白なお茶碗を選んでもらえたことが、僕は本当にうれしかった。

 

 

これだけきれいな白色のお茶碗なのに、一切汚れやシミ、長年使っている跡がない。

お2人がとても大切に、丁寧に洗われているのだろう。

 

真っ白なお茶碗はきれいで、元気で、無邪気で優しかった。

 

そんな大切なお茶碗を僕に使ってもらえるのは、言葉はなくてもなんだかすごく褒められたような気がしたのだ。

 

 

 

 

 

 

だけど、そんな真っ白なお茶碗を見るとつらくなってしまう日もあった。

 

僕の不用意な言葉で、大切な友達を傷つけてしまった日。

何をやってもうまくいかず、街を歩く人みんなが自分の敵のように見えた日。

まったくいらない物をその場の空気に押されて買ってしまった日。

忙しい日にかかってきた実家からの電話を、いらいらして無視した日。

 

そんな日は、この真っ白なお茶碗が、自分に似つかわしくなく思えてつらくなった。

 

こんなにきれいなお茶碗を使うことを許されるほど、僕はきれいな人間じゃない。

 

今日も真っ白なお茶碗を出してくれる優しいお2人を

僕は裏切ってしまった。

 

そう思うとやっぱり悲しくなった。

 

そんな腐りかけの僕を、分厚くて、やわらかいしょうが焼きが、からっと揚がったジューシーなからあげが、優しい味のお味噌汁が、丁寧に味が染み込んだ大根の漬物が、助けてくれた。

 

 

こんな僕にも、お2人のお料理がたくさん元気をくれた。

 

 

 

そうだ。飯なんてもうどうでもいいと思ってたけど、僕は今日これを、この味を食べに、外に出たんじゃないか。

 

この真っ白なお茶碗で美味しいご飯をたくさん食べて、また帰ってから頑張ればいいじゃないか。

 

 

すごくきれいごとを言っているかも知れないけど、そう思わせてくれるくらいこのお店は素敵なのだ。

 

 

 

大学を卒業して、この町を離れるときには最後にここの定食屋さんにいきたい。

 

いつも一番安いものばかり頼んでいたから、最後は一番高い、900円のカツカレーを食べよう。

 

でもカツカレーだと、あの白いお茶碗は使ってもらえない。なんだ、結局いつものしょうが焼きかからあげになりそうだ。

 

じゃあ、定食と一緒にホッピーをたくさん頼もう。

 

そうだ。そうしよう。

 

 

2年近く先のことを今日、決めた。

 

 

ちなみに今日は定休日だった。

あまのじゃくな僕について

僕はあまのじゃくだ。

 

変な自意識が自分の邪魔をすることが多い。妖怪あまのじゃく小僧である。

 

 

僕は漫画「ONE PIECE」を読んだことがない。

もちろん、僕が小学生の頃から「ONE PIECE」は周りの友達はみんな読んでいたが、僕はとにかく「ありきたりな奴」になりたくなくて、「ONE PIECE」を読まなかった。

 

当時はそれがかっこいいと思っていた。

ONE PIECE」を知らない俺、変わってるかなぁ?

みたいなスタンスが本気でイケてると思っていた。

 

 

服を買う時ときもそうだ。

気に入った洋服を眺めていると、

「あ!それ今年のトレンドなんですよ!僕もこないだ買いましたし、みんな持ってますよ!」

とお店の人に声をかけられた。

 

その瞬間、さっきまであれほどかっこよく見えたこのワークシャツが急激にどうでもよくなった。

 

「みんなが持ってる」という事実が、僕のワークシャツへの興味を無くしてしまった。

 

ちなみにこの店のお兄さんが持ってるかどうかは、本当にどっちでもよかった。

 

「おぉ!お客さん!!お目が高い!!僕ここで500年くらい働いてますけど、このワークシャツ手に取ったのあなたが初めてですよ!!!」

とかなんとか言われていたら、間違いなく買っていたと思う。

 

 

 

ついこないだ「ONE PIECE」を読んだことが無いことを後輩に話したら「それはヤバいですよ。」と言って「ONE PIECE」が無料で1日何話か読めるアプリを紹介してくれた。

 

後輩たちが「ONE PIECE」の話で盛り上がっていたところに入らなかった悔しさもあり、

僕は初めて「ONE PIECE」を読んだ。

読んだことが無いとはいえ、これだけ有名な漫画である。正直、ある程度話は知っているし、名シーン集みたいなのも何回か見たし、大まかなストーリーやネタバレも知っていたので、あまり気乗りはしなかった。楽しめる自信がなかった。

 

 

結果、めちゃめちゃ面白かった。

びっくりした。1話目からすでにワクワクが止まらなかった。

 

ONE PIECE」は面白い!!

なんて今さら改めて言うことではないのは百も承知だし、「地球は青い」と同じくらい当たり前のことなのもわかってはいるが、とにかく「ONE PIECE」は面白かった。

 

 

世間に何周差もついてしまったが、やっと僕は走り出せた。

 

今の僕ならなんでも楽しめるような気がしていた。

僕はワンピースハイになっていた。

 

 

 

このテンションで実はあんまりちゃんと聞いてこなかった「GReeeeN」と「ファンモン」も聞いてみた。

 

「え?GReeeeN…?とかあんま俺わかんないんよね…あ、俺、ヒップホップばっか聞くからさ…。」みたいなキモいスタンスを僕はかっこいいと思って貫いていたのだ。

 

GReeeeN」も「ファンモン」もどれもアツくて良い曲ばかりだった。

 

しかし、「GReeeeN」や「ファンモン」のアツイ曲を燃料にして、がむしゃらになれるものが今の僕には無かった。

 

GReeeeN」と「ファンモン」の僕的賞味期限は、

もうとっくに過ぎてしまっていたような気がした。

 

これをちゃんと中高生の部活をやっていたあの頃に聞いていれば……

 

 

自分に素直になることの大切さを学んだ、20歳の初夏。

日常のめんどくさいクイズについて

テレビをつけるとクイズ番組の多さに驚く。

 

確かにクイズ番組は見始めると面白く、いつの間にか自分が回答者になってノリノリで見てしまう。

 

 

僕たちはクイズが好きだ。

 

 

「これ、いくらで買ったと思う?」

主にアウトレットやセール帰りの友達から出題されるこの問題。

 

困る。すごく困る。

 

このクイズに関しては正解が、正しい値段を当てることではないからだ。

 

このクイズの正解は、なぜか自分が買ったモノの値段を嬉しそうにクイズ形式に出してきたこいつを、気持ちよくさせること。

 

これは難しい。聞かれた瞬間から自分の鼓動が早くなるのがわかる。どうしよう。死ぬほどどうでもいい…。

 

そもそもこいつはなんで、さっきからちょっとドヤ顔なんだろうか。

というか素直にすぐ値段を言ってくれたら、こっちだって

「え!見えない!やっっす!!これって普通に買ったら5000円はするよな!?」

 

と思ってもない呪文を、まぁまぁな大声で唱えられるくらいの世渡りはできるのに…

 

なんで、1回クイズ形式にして僕を試すようなことをするのか。

どうせ「え!安いね!」を言わせるためのフリなんだから、すぐに言えばいいのに…… 

 

なんて言うこともできず、僕は正解の絶妙な値段を探す。もちろん本当の値段より安く言うのはドボンだし、変に高い値段を言ってもそれはそれで、なんかわざとらしい感じになってしまう。

 

実は高校生までは

「うーーん。。10円!!!」

と言ってぼちぼちの笑いをとって、ぼちぼち折り合いをつけて、ぼちぼちその場を凌いでいたのだが、同じ相手に2回目以降は通じないうえ、大学生になった今、まったく面白くないことにも気づいてしまったので、僕はこの呪文を封印した。

 

大学生になってからの僕の必殺呪文は

「俺、同じようなのこないだ◯◯円で買ったからそんくらいかな?」

 

である。これだとそこそこ割高の値段を言っても、"自分が買った"という要素が入ることで白々しさ加減は緩和されるうえ、正解の値段より安い!なんてドボンももちろんない。

 

これで相手は

「残念!実は◯◯円でした〜!」

と正解発表したときに

"安く買い物をしたのを自慢できたこと"

"目の前のこの男よりお得な買い物をしたこと"

の2つの要素で気持ち良くなることができるのだ。

 

 

僕は、満足気にニヤニヤしている友達を見て、

「バカめ…お前は自分が出題者で俺を振り回しているつもりだろうが、本当は俺の書いたシナリオで踊らせているのはお前の方なんだよ…」

 

という心の声を抑えて

「まじかー、ショックだわ〜、俺も一緒に買いに行けば良かった〜」とダメ押しの一言を加える。

 

自分でも性根が腐ってると思う。

 

 

 

 

以前付き合っていた彼女は寝る前に

「私の好きなとこ◯◯個言って!」

と言ってくることがあった。

 

この瞬間、僕の頭の上にはネプリーグのあの大きな爆弾が投げられた。

 

(え!もう電気消したやん!え、え、寝ようや!寝ようや!え、え、今からファイブボンバーは無理やって!え、◯◯個!多くない!?てか一昨日もこの問題…え、やば、どうしよ。まじか、うわ…)

 

僕が答えに困っている間、どんどん彼女の機嫌が悪くなるのがわかる。部屋が真っ暗でお互いの顔が見えないのがせめてもの救いだった。

 

 

「もういい!私のこと好きじゃないんだね!おやすみ!!!」

 

 

「ゲーーームオーーーバーーー」

僕の頭上の爆弾は爆発した。

あの男のアナウンサーの声が聞こえて、僕の体は左右に振られた。敵チームの僕の失敗を、ホリケンが嬉しそうにいじってくる。

 

いじりをやめないホリケンに向かって僕は思わず

「いや、勘弁してくださいよぉ〜。」

と呟いてしまった。

 

 

彼女に聞かれてしまったか…

と心配だったが、確かめることは怖くてできなかった。

タバコについて

僕の大学には喫煙所がいくつかある。

 

初めて学内の喫煙所を見たときの僕の率直な感想は

「スカしてんじゃねぇぞ!タコ!!」

だった。

 

喫煙所でタバコを吸っている学生全員が

「はぁ…生きるのってしんどいわ…。」

みたいな哀愁を漂わせているように見えたのだ。

もちろんこれは僕の偏見だが

 

 

それにしても喫煙所にいた人たちはみんな、わざとらしくうつむいたり、天を仰いでいたり、少し姿勢を屈めたりして、遠くを見たり、なんだか気取ってみえた。

 

「いや、私立文系の大学生がそんな人生に疲れた感出すなよ!」

 

と、当時は本気で思った。

 

「さほど忙しくもないし、人生に疲れるほどの挫折もお前らねぇだろうが。」

 

本当に忙しくて、充実した生活を送っている学生にとってはタバコを吸う時間もお金も無駄なはずだと思っていた。

 

 

 

ただそういってる間にどんどん周りに喫煙者が増えていった。こんなに身体に悪いことがわかっているのに、みんながわざわざ吸うのは、それを超えるような良いことが何かタバコにあるのだろうか?

 

まぁ、知りもしないのに批判するのは良くないな!

 

 

という大義名分を手に入れた、ただちょっと大人に憧れてかっこつけたかった僕はまんまと試しに一箱買った。

 

少しドキドキしながら、寮の喫煙所でタバコを口にくわえた。火をつける。つもりがなかなかつかない。10分くらいして、やっと火がついて無事に煙を吸うことができた。このときはまだ、火をつけるときに息を吸わないと火がつかないことを知らなかったのだ。

 

初めて吸ったときの感想は

「あぁ…なるほどぉぉぉ……」

だった。正直言って味は全く美味しいと思えなかった。とにかく苦くて、臭かった。

 

ただ、自分の中で何かがふわっとラクになった感覚はあった。

 

40分くらい立って乗っていた満員電車の座席が空いて、やっと座れた…と落ち着くあの感じ。

 

身体も心もやっと一息つけた…という安心感。

 

それが、タバコを一口吸うだけで味わうことができた。

 

「なるほど…いやタバコ…いいんじゃないか!!…」

と思っていた矢先、ふと目に飛び込んできたのは透明な喫煙所の扉に写ったタバコをくわえた自分の姿だった。

 

吐き気がした。

 

タバコを吸う自分の姿があまりにも似合ってなくて気持ち悪かった。

 

僕が前に馬鹿にしていた、喫煙所にいた連中よりも何倍も醜かった。とにかく似合ってなかった。

中学生が必死に大人のフリをして、カッコつけているようでとにかく見てられなかった。

 

 

僕は慌ててタバコの火を消して、喫煙所を飛び出した。

 

喫煙所を出て気づいた。自分が臭い。

手が、髪が、口が、パーカーの裾が、とにかく臭かった。

 

 

 

 

タバコミュニケーション」という言葉があるように確かにタバコはコミニュケーションのツールとしては非常に良いと思う。

 

喫煙所では、大体みんな灰皿の方に体の正面を向かせているので、話すときは自然と隣同士になる。

高校を出ると意外と人と隣合わせで会話することはない。

 

喫煙所ならではの距離感は、落ち着いて話せる気がする。

 

また、「喫煙者」というだけでなにか同じチームのメンバーみたいな意識になるのか、特に男だけの集まりだと得することも多かった。早い話、気に入られた。

 

それに、ゆっくりゆっくり外の空気と一緒に吸うタバコは香りが良くて、美味しいということもわかった。

 

 

 

だけど、とにかく自分のタバコを吸う姿は醜くて、見たくなかった。

 

僕は日常的にタバコを吸うことはしないことにした。

 

精神的に落ち着かせるために吸うはずのタバコが、逆にどんどん自分のことが嫌になる道具になってしまったからだ。

 

 

 

 

タバコを吸った方が、周りの空気が良くなるとき。

飲んでいて、臭いや自分の醜態がどうでもいいくらい楽しく酔っぱらえたとき。だけ僕はタバコに火をつけることにした。

 

そこまで嫌なら完全に吸わない。と言えばいいのに、

なまじ吸うことでのメリットも知ってしまった僕は、完全にそれを手放してしまうことが、怖くてできなかった。  

 

 

 

それでも、1人で吸おうとはどうしても思えない。

 

 

 

 

 

 

 

3月に買ったハイライトは、まだ16本残っている。